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 ゆがわら散歩 No.35 2010年12月30日配信  by湯河原万葉荘

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■源頼朝が房州に船出した真鶴半島

今回は、源頼朝主従七騎の足跡を辿る最後の地です。

ここで、ちょっと復習です。

平治の乱に敗れ伊豆に流されていた源頼朝は、治承4(1180)年8月17日、高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)の平氏追討の命令を受け、北条時政や土地の豪族土肥実平らの助力を得て、ついに平家打倒の兵を挙げました。

伊豆国目代・山木兼隆を破って初戦を飾るものの、石橋山合戦では自軍の十倍の兵力を有する大庭景親軍と伊東祐親軍に大敗を喫します。

源頼朝は主従わずか7名で山中に逃れ、この近辺を領地とする土肥実平・遠平父子の案内で洞窟や大木の洞に隠れて敵の追手をかわしました。

この逃走劇の中で出てくるのが、湯河原の観光スポットです。

これまでにご紹介したものを逃走の時間軸で列記すると、「石橋山古戦場」「自鑑水」「城願寺」「土肥大杉」、この後は箱根に向かいます。

頼朝、実平一行は箱根権現社別当行実に匿われた後、箱根山から「小道地蔵寺屋敷堂跡」「しとどの窟」「土肥城址」「立石」「兜石」を経由して真鶴半島へ逃れ、船を仕立てて真鶴岬から安房国へ出航します。

今回は、源頼朝らが安房国へ向けて出航した場所である真鶴半島をご紹介します。

真鶴港にある魚座近くには、なぜか「しとどの窟」があります。


そこにある説明看板には次のような記述があります。

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鵐の窟(しとどのいわや)

治承4年(1180)8月、源頼朝は源氏再興の為、伊豆相模の兵300を以て石橋山に陣どり、 平家方大庭景親の兵3000と戦ったが、23日遂に敗北し、土肥の杉山に逃れ、 28日ようやくこの地に来り、海路房州に渡りしことは、史実の明らかなことである。
この時、頼朝とともに逃れてくるもの土肥実平、遠平の主従7騎となり、 この岩屋に身をひそめ飢をしのぎ、敵の何をまぬがれし所であると伝える。
頼朝らがこの地にかくれんとした折、岩屋のうちより鵐(しとど)という鳥が舞い出たと いふ所より、後世この岩屋を鵐窟と伝える。
頼朝は房州に渡ってよりのち、12年たち建久3年志をとけ、鎌倉幕府を創立するに至ったのであるが、 公の挙兵の当初、石橋山で敗北し、この岩屋で敵の虎口を脱した開運再生の地として由緒深い所である。
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湯河原の「しとどの窟」とはどう違うのか、よく分かりません。

源頼朝らが船出した場所は、現在海水浴場として使われている「岩海岸」と伝えられています。


ここには「源頼朝開帆碑」が建てられています。

真鶴半島から船出した頼朝らは、安房国勝山海岸(現鋸南町勝山)に上陸したとされ、相模湾・東京湾を渡った先の鋸南町には「源頼朝上陸地の碑」が建てられています。


源頼朝が挙兵したのが8月17日(新暦9月8日)とされています。

そして、伊豆を出たのが8月20日、石橋山の合戦が23日。

9月、安房において再挙し、10月6日には鎌倉に入り、10月20日に富士川の戦いで、京から派遣された平維盛の軍勢を撃破。

これにより、頼朝は関東を制することになったとのことです。

湯河原の歴史は奥が深いですね。

味わいがあります。

皆さんも是非、湯河原の歴史を堪能してください。

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